みかんと津軽の文学性

というわけで、思い返せば私の暗い人生は、中学受験の面接試験で「尊敬する人は?」と聞かれて「12歳に難しいこと聞くなよ」と思いつつも、間髪いれず勝手に口が「ジョン・ロードです」と答えていて、それを試験官が「ジョン・ロック」と聞き違え、イギリス以外は何も共通点がないのに、社会契約論について質問されて、「くそ、ローリー寺西って言っときゃ良かったな」と後悔したあたりから始まっているような気がするのですが、先日、デュルケム氏の学問的末裔が書かれた「メタル・ミュージック:音楽的事実の社会学」という論文をちらちら眺めていたのですが、レジュメはこんな感じです。

既に三世代のミュージシャンと聴衆に関わる音楽的事実であるメタルは、容易には把握し理解することのできない多様な形態の社会的事実である。

そこで、メタルを退廃的な影響力を持つカウンター・カルチャーとして捉える一部のジャーナリストと批評家によって行われる風刺やレッテル貼りを離れて、筆者は、宗教社会学の視点から、この音楽を考えることを主張する。

この意味においては、フィクションと現実のハイブリッドと組み合わせ、通常のものと異常なものへの参照、信仰と無信仰といった特徴において、つまり、まさに宗教的事実に見出すことができる次元と特徴において、メタルを評価する必要があるのだ。

筆者の議論の要諦は、宗教の機能的定義と実体的定義を相補的に援用して捉えると、目先のきかないジャーナリストや聖職者が批判するような「受肉した悪魔」、「暴力の形態」、「不吉な政治的潮流」、あるいは「究極の悪」などではなく、現代の宗教的形態なのだということです。

筆者によれば、まずメタルには、J・P・ヴィレムが言うところの三つの次元の贈与が指摘できるそうです。

まずは「始原の贈与(垂直的次元)を前提とする伝統的な象徴的活動」で、これが他の二つの贈与、つまり、「世代間における伝達(縦の次元)」と「同じ系譜に連なると認識される人々の間で織り成される連帯(水平的次元)」を触発すると。

で、同時に、D・エルヴュ=レジェが指摘する「信仰の連なり」という側面が見出せる。

「信仰の連なりは、伝統的で真正な記憶の正当な参照の下に、シンボルと儀礼を媒介」するのであり、その下では、「私たちの父が信じたように、私たちも信じるのである」という風になると。

いかがでしょうか。

しかし、悲しいかな、そんなことは二の次で、気になるのは具体例ですね。

ジューダス・プリーストスコーピオンズ、アイアン・名電、マリリン・マンソンは非常に分かるのですが、註の中でしか言及されず、本文で「父祖」として取り上げられるのは、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバスAC/DCです。

論文冒頭でさんざん悪魔崇拝、逆ペンタグラム等々が言及されているのですが、サバスを除いては、なんだかしっくりきません。

たしかにお店に行くと、「HR/HM」的な分類をされて、この辺はだいたい一緒においてありますが、なんだかしっくり来ません。

ツェッペリンジョン・ボーナムが寝ゲロで死ぬし、慰安・ギランは演歌歌手みたいで着物きたら似合いそうだし、オジーも一家まとめて芸人みたいになってるし、AC/DCも声と言いギターのファッションと言いなんだかコミック・バンドみたいだし、ちなみに個人的には長らくパープル・ファンをやっていたのでサバスと言っても想起されるのはギラン時代だし、そんなこと言ったらホワイト・スネイクでも良いような気もするし、そもそもクリムゾンなんじゃねーかな、みたいなどうでも良い疑問だけが駆け巡りました。

ちなみに、ウィキペディアによれば、歌詞に「文学性」があるとメタル、政治性があると「パンク」、どっちもないと「ロックンロール」と分類されるそうですが、ロックって残余カテゴリーだったんですね、なんだか「聖と俗」みたいですね。

ちなみに、メタルの下位類型として、

インダストリアルメタル
ヴァイキング・メタル
オルタナティブ・メタル
グラインドコア
クラシック・メタル
グラム・メタル
ゴアグラインド
ゴシックメタル
シンフォニックメタル
スピードメタル
スラッシュメタル
ダンスメタル
デスメタル
デスラッシュ
ブルータル・デスメタル
ドゥームメタル
ニュー・メタル
ネオクラシカルメタル
パワーメタル
フォーク・メタル
ブラックメタル
プログレッシブ・メタル
ポルカ・メタル
ミクスチャー・ロック
メタルコア
メロディックスピードメタル(メロディック・パワー・メタル)
メロディックデスメタル
ラウドロック
ラップメタル

と挙げられていますが、ポルカ・メタルはフィントロールだけですね。。

さらに、日本の「正統派」として、「歌詞に文学的要素に比重を置いた人間椅子聖飢魔IIセックスマシンガンズ」が挙げられていますが、どれも大好きですが、てっきり見かけの面白さと話芸の卓越で台頭したのかと思ってました。

あまり、津軽弁とかみかんとか閣下に、無理に「文学性」を見出すこともないかと存じます。

たぶん、「へヴィ・メタル」の語源の一つがラリったバロウズにあるせいでしょうか、なんだか話が必要以上に難しくなってきているようにも思います。

なんだか文句ばっかり言ってるようですが、全体的には面白い論文でした。是非、渋谷“昭和の妖怪”陽一氏に一読して頂きたいです。

いずれにしろ、上の類型に見られるようなサブジャンルの多さとか、複数バンド間での人の行き来とか影響関係とかを「教派」にたとえて理解しても大過はないでしょうし、そういう知識に関するファンの語りみたいなところも似ているのでしょうね。。

ちなみに、先日、学友と8時間くらいかけて会議した結果、勝手に「日本ロックの父祖」として寺尾“数式”聡氏を認定させて頂きました。

決選投票には沢田“勝手に”研二氏も残ったのですが、やはり、あまりにかっこよすぎて思想がないかなということで・・・・

というわけで、どうぞ。

どのへんがロックかというと、もちろんPV的な撮影だったのでしょうが、口パク通り越して、ほぼ口をモゴモゴさせているだけなあたりです。口をほとんど動かさずにトゥルントゥルン言っちゃうんだから、これはもうロック以外の何ものでもありません。

さらに、ギタリストの方が空耳アワーで代々木と代々木上原を間違えて遅刻する画伯に似ていらっしゃるあたりもロックですね。

しかも最後にムッシュです。もう、この上なくロックです。