『ライシテ、道徳、宗教学―もうひとつの19世紀フランス宗教史―』

というわけで、研究の真似ごとをはじめた時から(背が高いという物理的理由からだけではなく)見上げてきた学兄から御高著『ライシテ、道徳、宗教学―もうひとつの19世紀フランス宗教史―』を頂戴いたしました。

帰宅すると、「宅急便じゃないんだけど、どうやっても郵便受に入らないから持って帰るわ、また来るわ、っていうか、これ何?」というポストマンの嘆きの記された紙がありましたが、本当に浩瀚な書物で、完全被甲弾でも貫通するかどうかといった具合です。

目次は以下の通りです。

序論
 一 本書の課題
 二 用語の説明
 三 先行研究と本書の位置、本書の用いるテクスト・史料と方法
 四 本書の構成

第I部 胚胎期のライシテの道徳と宗教の科学的研究──二重の脱宗教化

第1章 一九世紀前半の宗教状況
 一 一八世紀から一九世紀の認識の地平へ
 二 「宗教」概念の変化
 三 宗教批判の諸潮流

第2章 オーギュスト・コントの宗教史と実証主義的道徳
 一 コントの二重の挑戦
 二 宗教史としての実証哲学、科学と政治のあいだの実証主義的道徳
 三 人類教における教育の位置、国家と宗教の関係
 四 コントの弟子たち

第3章 一九世紀半ばの宗教状況──科学と政治の分化、宗教の内面化
 一 転換点としての二月革命
 二 反教権主義の形成と「独立した道徳」
 三 宗教研究の科学的発展と脱政治化

第4章 エルネスト・ルナンの宗教史と政治的発言
 一 時代のなかの宗教史家
 二 ルナンの宗教史の基本構造
 三 科学的研究と政治的提言の関係

第I部の結論 コントとルナンを隔てるもの──実証主義の変質

第II部 ライシテの道徳の確立と伝播

第5章 政治の場における「道徳」と「宗教
 一 ジュール・フェリーにおける道徳と宗教
 二 一九〇五年法とライシテの基本構造
 三 フェルディナン・ビュイッソンによる「宗教的なライシテの道徳」

第6章 小学校におけるライシテの道徳
 一 ライシテの推進と一般的な地域差
 二 ライシテの道徳の諸相
 三 道徳装置としての学校文化

第II部の結論 ライシテの道徳はいかなる意味で宗教的か

第III部 宗教学の制度化と展開──宗教学の「宗教」概念

第7章 宗教学の制度化
 一 一九世紀後半における宗教の科学的研究
 二 カトリック神学部と高等研究院第五部門
 三 「神に対する義務」と「宗教学」

第8章 宗教学の展開──高等研究院第五部門の場合
 一 方法論をめぐる論争
 二 ライシテの道徳の位置

第III部の結論 宗教学の認識論的限界?

第IV部 道徳と宗教の新たな合流点──「宗教のあとの宗教性」

第9章 デュルケムの宗教社会学とライシテの道徳
 一 社会学の成立
 二 宗教社会学へ
 三 宗教社会学的なライシテの道徳
 四 近代における「宗教性」の三つの側面 

第10章 ベルクソン哲学における道徳性と宗教性
 一 ベルクソン哲学の新しさ
 二 道徳と宗教の二つの型、あるいはベルクソンのデュルケム批判
 三 心理学的・存在論的「宗教性」の三つの側面
 四 道徳性と道徳的生活
 五 心理学的存在論から宇宙論へ
 六 神秘主義、歴史、政治

第IV部の結論 デュルケムにおける宗教性とベルクソンにおける宗教性の関係

結論
 一 ライシテの道徳と宗教学の歴史的条件
 二 キリスト教的な、あまりにキリスト教的な?
 三 近代における宗教と宗教性
 四 私たちの眼差しの歴史的条件

まだ後半の3章しか拝読しておりませんが、19世紀当時の史料が博捜されています。

ギメ東洋美術館が昔はリヨンにあったことも知りました。なんでリヨンのオリエンタリストのヴンダーカンマーがパリにあるのかなんとなく疑問だったのですが、宗教学の制度化と少なからず関係していたようです。

あるいは、19世紀のカトリック神学部の状態なども興味深いです。
次の引用などは、枝野あたりが得意げに言いそうなせりふですね。

私の手元にある数字によれば、五つの〔カトリック神〕学部には全部で三七人の学生しか登録しておりません。パリの学部にひとり(左翼から皮肉の声)、エクスはゼロ、ボルドーにひとり、リヨンはゼロ、そしてなぜかルーアンに三五人おります。〔……〕これらの学部は実際に役に立っているのでありましょうか。少なくとも学位を発行しているのでしょうか。みなさん、これらの学部は一八〇八年の創設以来、年間平均で一〇の学位も出していないのです。

左翼がなんて皮肉ったのかとルーアンはひょっとしてジャンヌを火刑にしたことを悔やんで早くもゆとりが進んでいたのかといったことも少々気になりますが、
これに対しての司教の反論は
「神学は諸学の中心であり、これを廃止することは天体から太陽を取り除くようなものだ」
・・・・苦しいですね・・・少なくとも地動説を理解していることは分かるのですが。

実際にはこの部分などは、宗教研究が近代的な学として成立する過程のお話で、
「英独のような聖書研究をフランスでもやれるのか、おい」
「やらして下さい、やりますよ」
「じゃ、文献学的高等批評でやれ、高等批評で」
「やります」
といったやりとりの文脈の中のことで、事業仕訳とも飛龍革命とも無関係ですので、どうぞ実物をご覧くださいませ。