国粋少女の賭金
山田五郎が思想的転向をして鳥肌実になったと思っていましたが、どうやら違うようです。
皇居に向かって敬礼!な人々に会いたくなったら、土日に九段下へ行くのが良いでしょう。
恐らく気づいている方もいると思いますが、たまに九段坂下のスタバの前に止まっている街宣車(怖いから組織名は書きません)には、いかついアーミッシュなお兄様方に混じって、高校生くらいの女の子が乗っている時があります。
背が低いとかそういうのではなくて、どうみても幼い感じが残っています。
で、すごく美人です。
イメージで言うと土屋アンナでしょうか。
普段なら2秒で懸想するというか劣情を抱くというか、あっちもこっちを好きだと確信して「なんか湿度が上がってきたな」とか言って襟元を緩めて風を通し始めますが、彼女に対しては何も感じませんでした、軍服まで着ているのに。
なぜでしょうか。
彼女を見て思い出したのは、A.D. スミスの次の一節です(というのは嘘で、彼女を見た後にこの本を読んで、記憶を再構成したのですが・・)。
「どうして男といわず女までもが、自分たちの国のためにみずから進んで死んでゆけるのであろうか。どうして彼らは、そのように強く自分をネイションに結びつけるのであろうか」(Anthony D. Smith“The Ethnic Origins of Nations”)
三島由紀夫と赤尾敏が好きだったので(どうでもいいけど、この二人の写真集を作った篠山貴信は凄いですね。なに考えてるんでしょうか)、てっきり自分は純度100%の国粋主義者だと思っていたのですが、この一節を読んだ時には、すんなり「言われてみりゃそうだよな・・」とあっさり転向してしまったので、思ったほどのナショナリストではなかったようです(逆にナショナリストでもないのに、三島と赤尾が好きというのも危ない気がしますが・・)。
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つまり、ナショナリズムというのは、かなり滑稽というか可笑しいというか間抜けに見えます。
ナショナリストは、同じ日本国籍を所有しているというだけで、例えば会ったこともない九州のお兄ちゃんが用事もないのにパリに行ってパスポートを取られたのを見て、憤慨しなくてはなりません。
そういうことではないという批判もあるかもしれませんが、ナショナリズムのモデルとされるフランスのスローガンは「自由、平等、同胞愛」であり、「同胞愛」というのはこのような事態をも含意しているのではないでしょうか。
ちなみに最後のfraterniteを「博愛」と訳す人がいますが、そんな意味はありません。原義は兄弟愛であって、同郷の人々のみが対象です。
United Nationsが「国連」ではなく「連合国」(中国語ではこう書きます)でないのと同様です。
なんで私が長渕剛や藤井フミヤやはなわのパスポートまで心配してあげなくてはならないのでしょうか。
自分が一国の首相だったらそりゃ心配しなくてはならないのでしょうが、微々たる奨学金でほそぼそと暮らす資本主義社会のアンタッチャブルである可哀想な院生ごときが、なんでそんなことをしなくてはならないのでしょうか。
そうなるとラッツィンガーが教皇になって喜んでいるドイツ人も不思議です。
いったい何が嬉しいのでしょうか。
さらに言えば950年ぶりのドイツ人教皇とかふかしちゃってますが、950年前にはドイツはなかったはずです。
ビスマルク(ゴールをきめたあとに十字をきる方じゃなくて)が出てくるまで国家統合ができなくて、ドイツは色々大変だったと確か学校で習いました。
さらに差別であることをわかった上で言えば、以前から醜悪だと思っていたのが、サッカーの日本代表戦に詰めかける40歳以上の人々です。
日本人はいつからあんなにサッカーが好きになったのでしょうか。
プラティニが好きでずっとサッカーを見ていましたが、日本代表戦はあまり見ません。つまらないからです。
香港v.s.マカオを見ないのと同様の理由で見ません(麻雀対決なら見たい・・)。
なんでリンカに喰われた柳沢なんかを横浜や埼玉まで出かけて行って見なくてはならないのでしょうか。
ナショナリズムのおかげで、日本−バーレーン戦のチケットなんかが馬鹿みたいな高額で取引されていると思うと、本当にくだらないと思います。
ナショナリズムのせいで、PTAとかやってそうなおばさんがフェイスペイントをして、汚い金切り声を上げているのかと思うと、早くなくした方がいい気がします。
つまり「軍服アンナたん、萌え〜」とならなかったのは、彼女がどうやら、「北方領土を返せ」とか、「万世一系皇紀2600年」とか、「欲しがりません、勝つまでは」(負けたくせに・・)とか、「愛国忠臣」とか、そういうメッセージに少なくとも共感しているのであり、そのことが私にはあまりに間抜けに見えたからだと思います。
というわけで、可愛い女の子でも、思想的理由で劣情を抱かない自分がいたことに安心しました。