開かれた書物

ウンベルト・エコの世界的なベストセラーに『薔薇の名前』という作品があります。
ショーン・コネリークリスチャン・スレーター主演で映画化されたので、そちらを見た方も多いと思います。
まだ子供のスレーターが、後の実生活での馬鹿げた行動を予想させるようなチャラチャラした見習修道士をビートルズ頭で好演していて、小説の映画化作品としてはとてもよく出来ています。

薔薇の名前』には、その注釈本が、私が持っている限りで10冊以上あります。
エコ本人が書いたものもあれば、そうでないものもあります。

このような現象の背景には、記号学のスペシャリストであるエコが、この作品を“開かれたテクスト”として書きたかったという事情があります。
開かれたテクストとは、「作者の死」という構造主義を最もよく特徴付け、ポストモダンへの扉を蹴破った考え方に裏付けられます。

つまり、あるテクストの意図・解釈を一義的に決定し、命令し、管理し、指示するような規範的な権力(つまり大文字の作者)を抹消し、読者に生産性を与え、創造的な読解を促進しようとする立場です。
ロラン・バルトミシェル・フーコー、あるいはジャック・デリダを想起して頂ければよいでしょう。

例えば、エコは当初、この作品に『犯罪の大寺院』という仮題をつけました。
14世紀のイタリアの僧院で、修道士たちの連続殺人事件が起きるというプロットから考えると適切に思えます。

が、エコは、この題は、この小説が推理小説であることを暗示してしまう、という理由からこれを退けます。
そして、「薔薇」という、あまりに多義的で、なんの象徴か一義的に分からないものを選択しました。
これによって読者の自由な読解が担保されるのです。
エコは『薔薇の名前』は少なくとも4つのレベルの読解が可能なテクストだと言います。

ですが、「作者の死」は、飽くまでもその適用が促進されるのは、文学作品のみに限られるべきだと思います。
だって電子レンジの説明書が多様に解釈されたら東芝も困るだろうし、車の免許の試験をラカン的に解釈したりしたら絶対に受かりません。
「車とはその閉塞感から明らかなように母の子宮であり、直線道路とは屹立する男根であり、その上を走るとは〈父‐の‐名〉(non de pere/nom de pere)による世界の分節化を拒否することである」とか書いても、アルカイーダよりもたちの悪い集団である教習所の教官には、受け入れられない気がします。
だいたいマークシート式ですし・・

そして今、ゼミで毎回毎回報告しなくてはならないのは(かれこれ半年続いています・・涙)、社会学の著作も開かれたテクストとして読まれなければならないという非常に面倒くさい議論です。

これが面倒くさいのは、メタ議論であるから具体例が少なく考えにくい、社会学が自然科学なのか人文科学なのかが分かりにくいため議論が混乱する、この論文自体は「作者の死」を主張するものとして一義的に読まれることを要請しておりその意味で「作者の死」を裏切っている、アメリカ人のくせして気取った英語で読みにくい(palimpsestなんて単語初めてみた)、誰が興味を持っているのか分からない、O'Tooleなんて名前のやつにはろくなのがいない、第一節半ページ、第二節1ページ、第三節以降はラストまでだらだら続くなんていう構成はあまりにも愚かである、この論文が所収されているのは7センチくらいあるアンソロジー本の前半から三分の一あたりなので開いていてもすぐに閉じてしまい何度も天を仰がなくてはならない、エリオットからハーバーマスまで「知っている人の名前全部挙げてみました」感が漂っている・・・などなど色々あります。

早い話、残り少ない連休をぶっ潰してくれるにはもってこいの論文なのです。
で、逃避するために、オルテガの『大衆の反逆』を読んでいたのですが、「世界の名著」シリーズには、なんと「大衆」の写真が入っています(白水社など他のものにはありません)。
わけの分からない外国の街角の写真でしょうか。
「これ大衆っぽくねー?」と編者がこの写真を選んだであろう瞬間を想像して2分ほどしのび笑いしてしまいました。
デリダならこの写真一枚でふがふがとありがたいことを言うのでしょうが、そんなことをしているとレジュメが終わらないのでやめときます。