TrackFuck

誰が考えたのか知りませんが、ブログにはトラックバックという機能があって、自分の文章を何らかの観点において関係していると思う他人の文章に関連付けることができます。
といっても、他人のHPの「最近のトラックバック」みたいな一覧で、小さな小さな自己主張をするにすぎませんが・・

hypertextの背景にある「脱中心性」あるいは「非直線性」という考え方を最もよく特徴づけています。
つまりセオドア・H・ネルソンの言う、「・・非順序的なエクリチュール、すなわち分岐し読者に選択肢を与えインタラクティブな画面で読まれるのが最もよい読み方であるようなテクスト」です。
お気づきになる方もいると思いますが、デリダ脱構築と極めて親和性の高い思想です。

ですが、このハイパーテクストが意味を持つのは、根本的には、それを構成する個別の情報になんらかの価値が認められる時だと思います。
ぶっちゃけて言えば、くだらない日記同士を関連付けることに、私は意味を感じません。
ですからオート・トラックバック以外でトラックバックをしたことはありません。

コンスタンティンを見た人の感想をまとめて聞いたからといって、キアヌの無気力な演技がより面白くなるわけでもないし、せいぜいネタバレして見に行く気力すら失われてしまうのがおちのような気がします。
「本当に必要なコミュニケーション以上の量の媒体が存在している」ということを、これほど分かりやすく裏付けているものはありません。

IT技術の浸透でインタラクティブなコミュニケーションが活性化することで、これまでのマス・メディアへのカウンターアタック、つまり少数者の言説が権力的なものとして一方的に与えられるという情況がゆさぶられるというような予想がありましたが、ふたをあけてみれば、大衆に主張はなかったというのが現実ではないでしょうか。
幹事仕事をするのに、いちいち電話をしなくても、メールでまとめて送れば時間が節約できるようになったというくらいでしょうか。

では、なぜことほど左様に害ばかりで利益の無いトラックバックが、かなりの頻度で行われるのでしょうか。

おそらく、日記程度のどんなにくだらないものでも、自分の書いたものを出来るだけ多くの人に読んでもらいたいという、極めて近代人的な欲望がその背後にあると思います。

このブログを初めて半年くらいですが、毎日のアクセスIP数を見ていると、直接このブログを教えた方の10倍以上の方が閲覧しているようです。

ちょっと恐ろしくなる数です。
まったく知らない、ひょっとしたら容姿端麗・頭脳明晰・学歴家系抜群のパワー・エリートでエスタブリッシュな方が、このアホみたいな文章に眼を通している姿を考えると、それだけで二度と眠りから覚めたくなくなります。

ではなんでこんなものを書いているのかというと、無理やり書くような状況があって、初めて書くべきことが発生するというふうに考えているからです。
つまり書くことがあるから書いているのではありません。

ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75)

ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75)


これはフーコーが『異常者たち』という講義で分析したことなのですが、カトリックに告解という制度があります。
自分の罪を神父に告白して赦しをえるというものです。

フーコーは、この告白を強制されているうちに、人々は自らにどうも内面があるらしいことに気づいたと言います。
つまり自分についての真理を語る事を余儀なくされているうちに、自律的で主体的な近代人の原型ができあがったということです。

早い話が、修論を書かなければならない状況になって、無理矢理問題意識をでっち上げて、無理矢理自分の主張をでっちあげるということです。

では何を目指して私は告白しているのかというと、それは完全な謎です。
すでに近代人のつもりでいますし。
たぶん、身近に極めて容易に告白できるブログというシステムがあるから、ちょっと手を出してみたというのが実態だと思います。
だからこのブログを多くの知らない人が読んでいるのはちょっと怖い、ということです

ところでトラックバックという言葉で思い出したのですが、フランス語では大学をファック(fac)と言います。
スペルは異なりますが、発音は英語のfuckと全く同じです。

先日の国際学会のパーティーでフランス人と話していてこの単語を連発していたら、隣の英語圏の野蛮人が顔をしかめていましたが、フランス語では非常に使用頻度の高い単語です。

ですからフランス人がファックと言っていたら、それは多分あなたの性的魅力を称賛して実存的行為に及ぼうとしているのではなく、おそらくは、専門分野等の穏当な話題を選んで害の無いひと時を過ごそうと努力しているのだと理解するべきでしょう。

ちなみに日本人には難しいRとLの発音も重要ですね。
フランス語ではこれができないと、コシヒカリが食いたいのか、寝たいのか(あるいはファックしたいのか)がはっきりしません(cf. rizとlit)。
英語だと、もっと恐ろしいことになりますね。
とんでもないものを食わされてしまいます(cf. riceとlice)。