貧しい人たちは、自ら貧しさにはまっていってるように思える

今月末に行く御嶽山に関係するグループの東日本支部にあたる霊場へいって来ました。
埼玉県本庄市という、神が見放した、ジャスコとベイシアとパチンコに偏愛される土地です。
キリストは本庄市民のために十字架にかけられた気がしてきます。

中山道(イチニチジュウヤマミチではありません)の宿場街として昔は栄えたようですが、今は瀕死の街です。
ひたすらに出て行きたいと思うような街ではないでしょうか。
年少ヤンキーが自転車に乗ってジャスコにジャージを買いに行くようなところです。

で、当の霊場ですが、「民俗宗教は死んでいる」という言説を完璧に裏付けてくれるような場所でした。
管理している住職にあたるような人が、ガリガリ君を食いながらランニングで境内をだるそうに歩いているのが印象的でした。

普通、こういう宗教施設の管理人というのは、尋ねてもないのに社務所のドアを蹴破って現れて、長い長い長い自慢話というか法螺話というか由緒・伝承を説明してくれたりして、こっちの予定を大幅に狂わせてくれるものです、ありがたいですね、ヒエロファニーですね。

ですが、ここの方は「ちょっとお話を聞かせて頂きたいのですが」という師匠の問に対して、「お話って、なんの話?」とスーパー・クールにお答えになっていました。
この形骸化具合が日本の民俗宗教っぽくて良いですね、別に批判はしていません、そんなものでしょ。

修行のための水場は、ただの物置になっていました。
建物も、古そうですが良く見ると、プレハブにツギをあてた、たんに汚い建物です。
田舎の人が、突然、妙なインスピレーションに打たれてわけのわからないテーマパークや博物館を田圃をつぶして自前で作ったりすることがありますが、のりはああいう感じです。

その後、本庄七福神という、いかにも田舎の木っ端役人のインスピレーションで始められたのであろう、相互の参拝場所が異様に接近している七福神を見ました(3つが隣あっていたり・・・)。
あまりにアホくさいので2つでやめましたが・・・。
だって、毘沙門天とか弁財天の像が建っているのですが、それがアニメ風で、いかにもここ2,3年の間に作った感じで、明らかに村上隆をぱくったようなデザインなのです。

さて往路は高速を使ってガラガラの外環をぶっ飛ばしてきたのですが、帰りは、関東を真横に横切ってみることにしました。
こちらの方が効率的でした、ほとんど時間もかわりません。

それにしても、北関東というのはどうしてこうも全てが退廃的なのでしょうか。
ちょうど100km東西方向に移動したわけですが、まったく渋滞してないのに、常に同じ風景にいました。
パチンコ→中古車屋→でかい駐車場のあるコンビニ→ふざけた名前の飲み屋のでかい看板→牛小屋→ファミレス→パチンコ・・・の無限ループで、頭痛がしてきました。

やはりこういう景色が民俗宗教を殺したのではないかと思います。
民俗宗教が死ぬのはまったく構わないのですが、駅前にジャスコを誘致することを「開発」という、これ自体非常に貧しい言葉で呼んでしまう田舎の人の価値観を早急に改める必要があると思います。

用事がなければ北関東には絶対に行かないので、別にどうでも良いのですが、あまりに貧しいですよね。
ヤンキー的心性というのがいかにして芽生えるのかが分かります。

あんなところで中学生をやっていたら、それこそおれの車はリッターあたり何キロ走るとか、どこのスタンドが安いとか、オートバックスとオートテックは違うのかとか、そういう話しかできない可哀想な人になってしまいます。

あるいは自分探しみたいなことをやりに海外にいったり、祐天寺とか中野とか下北沢とかで貧しい共同生活を送ったりしてしまう気がします。

ダグラス・クープランドが「貧しい人たちは、自ら貧しさにはまっていってるように思える」という台詞を書いていましたが、まったくこれに当てはまる状況が存在します。

きっと家族みんながテレビに齧りついているのでしょう。
あんなところ、窓の外に目を向ける気はしないはずです。