By night an atheist half believes a God

「神が肉体を持つなら、それはまさに偶像崇拝である。メシアが王冠を拒否し、いばらの冠を選ぶなら、それは単純に異様なことだ。サンヘドリンは苦もなくイエスの死刑を取りつけた。それほどまでに、その主張は異様に見えたのだ」
レジス・ドブレ『一般メディオロジー講義』)

詳しい話は省きますが、神様が何も言わなくなってから随分経ちます。
こういう時代に、ある程度緊張感を持って接する人々との間で話題にするのに、時として韜晦、あるいはブラフと共に語らなければならないものとして、政治・宗教・芸術という3つがあります。

とはいえ、政治と宗教については、自分も含めて、どうせみんな偏っていて、「沖ノ鳥島はアイランドだ!」「いやロックだ!」「おれは神だ!」程度のどうでも良いことしか言わないことは分かっているので、ある種のアイロニーとして楽しく話題にできます。

ですが、芸術については、特に絵画についての場合、まずそれが極めてどうでもよいものであること、だが一方で、これについて語ると、その人がどういう人かが分かるということになっていることもあって、常に戦略性をもって語らなければなりません。

たとえば、社会的倫理的責任感を少しでも持っている誠実な人は、「人生に絶望している。地球なんか爆発してしまえ」という感情を示したい時以外には、平山郁夫の金箔をちりばめた粗大ゴミを褒めてはならないということです。

面倒くさいですが、これがゲームのルールです。

と、こういう観点のもとに、これまで散々、罪の無い人々の芸術への純粋な(と、こういう人々は言いますが・・)関心をおちょくってきたわけですが、先日お話しした先輩は、「モローもルドンも、それについてどう語ってよいか分からない。むしろロスコやカンディンスキーなどの方が現代においては芸術としての自立性・自明性を持ったもののやうに思われるのです」というようなことをおっしゃっていました。ふつう、逆ですね。
ふつうと逆だから彼の嗜好は慧眼だと思います。
こういう方には会ったことがなかったので、かなり動揺しました。

もちろんググった画像だけ見て、名前が格好良いからモンドリアンが好き、とか言っている貧困に喘ぐ可哀想な人はいくらでもいますが、彼はメトロポリタン、ルーブルフィレンツェなどの世界中の美術館に直接行った上でこのような発言をしているわけで、あまりいないタイプではないでしょうか。

経済的にはミドル・クラス(ヘリコプターは買えないけど、ベンツくらいなら買える)で、モネ・マネ・ドガを好きと宣言してしまうには知識と羞恥心がありすぎるインテリゲンチャとしては、モローやルドン、あるいはミレイ(百姓画家ミレーではないので注意)というのは、極めて穏当な線ではないでしょうか。

私自身、ヨーロッパでも日本でも、基本的には不毛なので芸術の話はできるだけ避けますが、それでも話さなければならない時、たいていの場合はこの路線で押していって、話がこじれてきたら、クラナッハ、グリューネバルト、セガンティーニなどの、ほんの少しエソテリックな雰囲気の画家を挙げて誤魔化します。

日本人が好きなミレー、コロー、ルソー等のバルビゾンにたむろっていた不良外人の場合はどうとでもなりますね。
バルビゾンにはミシュランの3つ星だかなんだかのレストランがあります。
農家を改造したような建物です。で、昭和天皇が遊びに来たときにそこで食事をしたのですが、その時のメニューを「天皇定食」みたいな感じでいまだにやっていて、宮内庁が、無許可でそういうことすんなよ、みたいにいちゃもんつけたのですが、やめる気配がないということです。
国賊の村ですね。

ゴッホにいたっては語るに落ちるといったところでしょうか。どっかの間抜けで下品な社長がバブル期にとんでもない額で「ガジェ博士」買って、死んだら自分と一緒に焼いてくれみたいなことを言って、買わなくてよい顰蹙を世界中で買いましたが、ゴッホ好きには碌な人がいません。このしゃっちょさんも、確か100億円以上出していたと思いますが、ゴッホなんか買わないで、愛人100人囲った方が良かったのではないでしょうか。
それで死んだら自分と一緒に・・やめておきます、そんなソロモン王かファラオみたいな人いませんよね、インドの寡婦じゃないんだし。

小林秀雄が嫌いですが、その理由の二つのうちの一つはゴッホ好きです(もう一つは髪形)。
それまで気に入っていて毎日眺めていた日本の掛け軸が偽物だと分かったとたんに日本刀で切り裂いたくせに、ゴッホはそれがレプリカだと知りつつ、それを見たとたんにあまりに感動して、その場で腰がくだけて動けなくなったみたいなことを自慢げに書いています。

貧しかった日本の象徴です。

というわけで、芸術とはあまり関係のない話になってしまいましたが、ブルデューの指摘を待つまでもなく、文化資産として最も機能するのが絵画・音楽・映画についての嗜好なわけで、これについて語ると常に差別的になってしまいます。
仕方ありませんね、だって近代社会では、差別をするために芸術があるわけです。

では、どうしたら良いのか?
絵なんか見なくても死にはしないので、見なくても良いとおもいます。
「好きな画家は?」とかふざけた質問をされたら、「中期おおひなたごう」とか答えるものありですね。