オッカムのウィリアムが草葉の陰で泣き出しそうな不毛な会話
脱魂状態で呆けたようにテレビを見ていたところ、楽しそうなニュースがやっていました。
「中1ギャップ」というのがあるそうです。
なんでも小学校を卒業して、中学生になった途端に勉強についていけなくなる子供がいるそうです。
ふつうなら、「そういう人って、どこでも一定数いるよねー」となるはずなのですが、使命感に燃える中学校の先生たちは、しつこく追いかけてきます。
何をするのかというと、小学校に出張って、あらかじめ中学校の数学の授業なんかを行うんです。
で、なにがびびったって、「数式でいきなりxとかyを使うと難しくてついていけないので、初めはリンゴとかバナナの絵を使うんです。いや〜、中学校の授業では思いつきませんでした(笑)」というコメントです。
「数式に出てくるx、yが難しい」という事態が上手く理解できないのは私だけでしょうか?
xもyも、それ自体で難しいことはあり得ないと思うのですが・・・
逆に、リンゴとバナナで置き換える方が、話が混乱しませんか?
だってxとかyって、実数から虚数まで、任意の数が当てはまる可能性があるっていうことですよね。
それを、いきなり、恐ろしく実体的な果物で置換されたら、かなり混乱します。
だって、「∴リンゴ=2,バナナ18.5」とかって、意味わからないですよね。
霊長類最強の記号学者ウンベルト・エコは、少々嫌みったらしく、でもものすごく分かりやすく、「私にはシンボルの意味が分からない」ということを告白しています。
ついこの間、《現代思想におけるシンボル》に関して論文を書こうという学生が私のところにやってきたことがある。
これは不可能なテーマだった。
ともかくも私は“シンボル”がどういう意味なのか知らなかった。
〔…中略…〕
形式論理学者や数学者は“記号”(シンボル)をもって、形式化された計算において正確な機能をもつ一定の位置を占めるが、意味を欠く表現を指しているのに(代数の公式におけるaや、bや、xや、yのように)、一方、他の著者たちはそれを曖昧な意味に満ちた形と解する―たとえば、樹木、性器、成長欲、等々に及ぶ、夢に現れてくるいろいろなイメージと解する―ことを考えてみればいい。
それなのに、どうして上のようなタイトルの論文を書くことができようか。
(エコ(1991)『論文作法―調査・研究・執筆の技術と手順―』谷口勇訳、而立書房)
ことほど左様に、シンボルの扱いは配慮を要求します。
したがって上記の先生は、数式においてリンゴやバナナを扱う時には、それらが身近な果物であるにもかかわらず、「形式化された計算において正確な機能をもつ一定の位置を占めるが、意味を欠く表現」であることを小学生に説明しなくてはなりません。
なにが難しいって、「リンゴとバナナにおける意味の欠如」の説明ですよね。
リンゴとかバナナとかが何かの拍子に数式に出現したら、私なら間違いなく「たとえば、樹木、性器、成長欲、等々に及ぶ、夢に現れてくるいろいろなイメージと解する」と思います。
ひたすら椎名林檎とバナナマンのコントがあたまを駆けめぐって、いつのまにか授業が終わっていると思います。
意味を欠如したリンゴとバナナを、まったく記号的に操作するというのは、かなり難しいのではないでしょうか。
リンゴやバナナがあらゆる数と等価であることを理解できる子は、たぶん中1で落ちこぼれることはない気がします。
ごちゃごちゃ迂遠な話をしてきましたが、早い話、「リンゴとバナナで小学生に数学を教えるなんて、先生ったらアイディア・マン!」みたいな、いかにもNHK的な近視眼的思考が嫌いなだけです。
「x,yは難しくて、リンゴ,バナナは易しい」という判断そのものが気持ち悪いと思うのです。
私の個人的体験を想起すると、こういう先生は、素朴な疑問をぶつけると、「この餓鬼は何を言っているんだ」みたいな顔をします。
生徒「先生!答えが、リンゴが2と1/4で、バナナが−8の意味が分かりません。具体的にはどういうことですか?」
先生「具体的な意味はありません」
生徒「でも、リンゴもバナナも具体的です」
先生「このリンゴとバナナは具体的なリンゴとバナナではありません」
生徒「具体的ではないリンゴとバナナとは、いかなるものでしょうか?先生、ひょっとしてプラトン主義者ですか、今どき?」
先生「・・・・・次の問題いきます」
こういうオッカムのウィリアムが草葉の陰で泣き出しそうな不毛な会話が繰り広げられることは間違いありません。
だいたい落ちこぼれた子なんて、放っておけば良いではないでしょうか?
私自身、放っておかれてすごく楽しかったのですが。
どうでも良いけど、エコを指導教官にして、現代思想とかシンボルをやろうとするイタリアの院生も凄いですよね。
私ならあまりの怖さに失語症になると思います。