仁義なき巨大仏

とにかく大きいものが大好きなわれわれですが、その中でも最もすきなのが巨大仏ですね。

そんな人にうってつけなのが、宮田珠己『晴れた日は巨大仏を見に』(白水社、2004年)です。

晴れた日は巨大仏を見に

晴れた日は巨大仏を見に

某国が侵略してきた時にレオナが操縦するという話がまことしやかに囁かれる我らが新世紀・牛久大仏にはじまって、

淡路島世界平和大観音
 北海道大観音
 加賀大観音
 高崎白衣大観音
 長崎西海七つ釜聖観音
 会津慈母大観音
 東京湾観音
 釜石大観音
 親鸞聖人大立像
 仙台大観音
 うさみ大観音

・・・・なんかが取り上げられます。

まあ、思うのは、牛久大仏みたいのが日本中にこれだけあるってことは、日本ってのはやっぱり豊かな国なんだなーということです。

こんなもの、どうかんがえたって、町おこしとか税金対策とかそんなもんです。 宮田氏のスタンスも基本的には、「笑うしかないだろよ・・・」というものです。

もし二十一世紀の今でも巨大仏に訪れる価値があるとするなら、それは戦没者慰霊でも、デカいというスペクタクルを味わうのでもなく、風景のズレやキッチュさを楽しむ、つまり「マヌ景」として楽しむ以外になくなっている〔…中略…〕巨大仏に期待される役割は、「救い→驚き→笑い」というように変化したのである。(p. 122)

まあ、そうですよね。本当に巨大仏はニュー・ジェネレイションなわけです。

縁のある土地なので知っているのですが、高崎白衣観音なんか、戦時中には空襲の標的になるから撤去すべきだというような話が出たのですが、終戦になってなんとか逃れたみたいなプチ美談もあります(ちなみに高崎観音は昭和11年完成で、40m以上のものとしては最も古いそうです)。

でも、宮田氏によれば、現在では、高崎観音の足元にはラブホ街が広がっているらしく、「観音様に見られてると思うと、普段よりも興奮しちゃう」みたいなことになっているそうです。

どうなんでしょうね、巨大仏。郁夫にありがたい絵の2,30枚でも書きとばしてもらえば、それなりにありがたくなるのでしょうか・・・・まあ、ならないでしょうね。

たぶん、『下妻物語』の喧嘩の舞台になるほうが、よっぽどありがたさアップです。 それにしても、同じく巨大なら、なんとなく巨大バッタの方がよりキッチュでありがたい気もします。

太陽の塔なんかも、学会サボって見に行きましたが、妙に嬉しくなりました。ちなみに太陽の塔は、「懐かしい未来の風景」としてとりあげられています。

たぶん巨大仏って、「この施工者は、金と暇はあったんだろうけど、知的な努力は放棄したわけだな・・・」みたいな感想を持たせるような気がします。 「デカイ=大仏」以外の観念連合はないのかよ、と。

その意味で、同書でとりあげられているPL教団の大平和祈念塔とか、平壌の柳京ホテル(未完成で今は廃墟)なんかは普通に行きたいですね。

というわけで、とりあえずは再来月に、ニュータウンのど真ん中でドラゴンを踏みつけている東北一の無法者、仙台大観音(100m)でも見に行きませう。

合成写真のような風景が目の当たりにできるそうです。