楽しいシンポジウム

というわけで、「疲弊する〈近代〉」というシンポジウムに行ってまいりました。

ネット集団自殺、障害者家族、現代の学校教育の三つが取り上げられていましたが、どれもメタメタにメタなわけでも、ベタベタにベタなわけでもなく、本当に楽しく拝聴しました。

どれも本当に知らない領域のお話なのですが、コメンテータの先生方がまとめていらっしゃったように、三つとも、いわゆる後期近代というような社会状況の中で、人間が、「合理的な部分」と「情緒的な部分」の双方を抱え込んでいて、この二つをどうやってそれなりに首尾一貫させるのか、という問題意識で共通していたと思います。

これって、ミシェル・フーコーの「現代人は超越論的次元と経験的次元に乖離してしまう」というような議論と同じなわけで、つまりは、東が「動物化・・・」で論じていたことなわけで、「おお・・・」とか思ったのですが、情けないことに「おお・・・」で終わってしまうんですよね。


それはそうと、三つ目の教育論がやっぱり印象的でした。

てっきり近代学校制度批判のようなものかと思っていたのですが、内田樹氏なんかを引きながら、「弟子が師匠を欲望しなかったら知識の授受は無理」というようなお話をされていました。
(ちなみに偶然ですが、内田氏の今日のエントリー「最後の授業」も、これと関係するようなお話です)

で、内田氏の場合は、あくまでこういう師匠―弟子関係は、学校教師というよりは、レヴィナスとかラカンとか武道の師範に対して結ばれるのですが、この発表では、普通の学校でもこうあるべきだ、ということでした。

だから、「授業やるよ〜」と言って集まらない子(つまり、欲望しない子)には教育は無理で、年少にぶち込むか、それでもダメなら病院に入れるしかないし、実際、「しんどい学校」(大人な表現ですね)のやってることは「福祉と治安維持」だ、というとても歯切れの良い議論でした。

「勉強のできない子は全力疾走できないからすぐ分かる!」なんて言葉はキュンキュンきちゃいました。
院試の募集要項に「午後:構内を疾走」とか書いてあったら、笑いますね・・・・・笑わないか、広すぎますね。

一方で、「学校→少年院→病院」コースって、後期近代とか近代の疲弊というよりは、「生権力まつり〜やるときゃやりますパノプティコン〜」な「ド近代」って感じがしました。

でも、現場にいる方からみれば、だって実際にこれが学校システムなんだから、抽象的に近代制度の批判したって意味ないじゃん、ってことになるんでしょうね。

ところで、ネット自殺の発表の方のレジュメには、最初に引用があって、それが岡崎京子リバーズ・エッジ』の「もしかしてもうあたしは すでにしんでて でもそれをしらずに 生きてんのかなぁと思った」みたいのがあって格好良かったね、みたいな話を一緒にいたIM氏とお話ししました。

師匠も、「若いころは、ヴォネガットJr.なんか引いちゃったりしてね・・・ふふふふ」みたいなことをおっしゃってたし、師匠の師匠はスティーブン・キングなんかを引いちゃったりして(あまり関係ないとも思うのですが・・・)、IM氏も、今度の発表で村上春樹なんかを導入に使うかもとおっしゃっていたし、一回やってみたいですね(なんかアメリカ文学な匂いですね・・・)。

でも、なにを引いていいか分かりません・・・

せっかく万葉のゼミをとっていたことだし、「大君は神にしませば・・・・ところで正統派世俗化論者のスティーブ・ブルースは・・・」とかやってみたいのですが、これは意味不明ですね、大君もブルースも。

やっぱ微妙に関係ありそうな感じで、引用元も微妙にチャラいけど通好みな感じなのが良いわけですよね。

というわけで、廊下に落ちていて、てっきり『ドイツ入門』だと思って読み始めた『どどいつ入門』なんてどうでしょう。
江戸っ子のエスプリが伝わってきます。

  逢ふた夢みて笑ふてさめて
    あたり見まわし涙ぐむ

なんてどうでしょう。
「・・・というわけで、不倫するために結婚するのはフランス人で、フランスといえば大革命と政教分離法による共和国原理ですが・・・・」とかってのもかっこよいですね。

ちなみにこれは、ジョルジュ・ボノーという人が1933年に仏訳してあちらで紹介したそうです。

  泣かずに別れる約束だった
    遠い花火に眼をそらす

「・・・というわけで、合理的選択理論が説くような合理性をわれわれはちっとも持ち合わせていないわけですが・・・」というのも、なんだかだるいですね。。。

一番気に入ったのは、

  こうしてこうすりゃ こうなるものと
    知りつつこうして こうなった
というやつ。
このゆるすぎる諦念が最高に素敵です。