アウシュヴィッツの後に・・・

A Universal Heart: The Life And Vision of Brother Roger of Taize

A Universal Heart: The Life And Vision of Brother Roger of Taize

テゼ共同体の創設者であるフレール・ロジェことロジェ・ルイ・シュッツ=マルソーシュ(1915年5月12日〜2005年8月16日)の伝記を読了。

リンクしたのは英語版ですが、実際に読んだのはフランス語版、でも原著はそもそも英語版らしい。

ロジェものはいくつか読みましたが、この本がベストだと思います。

140ページくらいで、非常に手際よくロジェの生涯をまとめています。

特に、彼の青少年期についての記述が詳しくて参考になりました。

西欧の中で特異な位置取りをするスイスに生まれたことが、「キリスト者の和解、人類の和解」というようなエキュメニカルな方向へ、彼の思索と活動を向かわせたような気がしないでもありません。

彼が、スイスとの国境に近い、フランスのテゼ(ブルゴーニュ地方、クリュニーの北10km)に住み始めたのは1940年。

それまでは、改革派教会の信者として、ストラスブールローザンヌで神学を学んでいたそうですが、チャリに乗ってフランスへ行き、テゼに小さな住居を見つけたそうです。

で、当然1940年代なわけですから、うろたえないッドイツ軍人がフランスの南半分を占領しているわけです。

で、テゼはちょうど二つのフランスを分割する中間線のちょっとだけ南側(ドイツ占領地)にあります。

そのようなわけで、ロジェの活動は、ユダヤ人をスイスに逃がす一種のレジスタンスから始まります。

ゲシュタポに踏み込まれたこともあるそうです。

その後の出来事を抜書きするとこんな感じです。
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 1942:一時スイスに帰国。

 1944:テゼに戻る。他のメンバーが加わり共同生活を行うようになる。

 1949:ロジェに共鳴する人が集まり、7人のフレール(修道士)が誓願を立て、男子修道共同体として正式に発足。

 1966:テゼを手伝うために、ベルギーのイエズス会の修道女たちが近くに移り住む。

 1969:ベルギー出身の「カトリック信者」が初めてフレールになる。この頃から、若者のテゼ巡礼が増加する。

 1975:〈journée du peuple de Dieu〉をテゼで開催。フランスとドイツのアングリカン教会の代表であるMartyとDöpfnerが参加。
 
 1976:マザー・テレサがテゼ訪問。

 1983:マザー・テレサ、テゼを再訪。

 1986:ヨハネ=パウロ2世がテゼを訪問。

 1988:ユネスコ平和教育賞受賞。

 1989:ロジェ、国際シャルルマーニュ大帝賞(カール大帝賞)受賞(欧州統一と世界平和に功績のあった人に贈られる)。

 1990:ルーヴァン・カトリック大学、名誉博士号。

 1992:ロベール・シューマン賞(シューマンは、欧州共同体を構想したルクセンブルク出身の元フランス外相)。

 1992:カンタベリー大司教のGeorge Careyが、イギリス中の教区から千人あまりの若者を連れてテゼを訪問し1週間滞在。

 1994:ウプサラの大主教がテゼ訪問。

 2005
 4月:前教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀ミサを司式したラッツィンガー枢機卿から聖体を受けて論争になる。ヴァティカンのスポークスマンであるナヴァロ・ヴァルスは、これはロジェが誤って聖体拝領者の列に並んでしまったための事故だと発表。だが他方では、ロジェがカトリックの聖体理解である全実体変化を共有しているとも述べた。

 8月16日20時30分:テゼの夕べの祈りにおいて、参加者のルーマニア人女性Luminita Ravaillescu Solcan(36歳)に刺されて21時頃死亡。報道によれば、彼女は精神的な病とのこと。テゼ代表の後継は、生前からロジェが指名していたフレール・アロイス(Alois Löser)。1954年6月11日にバイエルン州に生まれのシュトゥットガルトで育ちで、リヨンで神学を学んだカトリック信者。
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というわけで、怒涛の人生ですね。

特に、1970年代後半あたりからエキュメニスムの体現者ということが意識されだすと、まるでオックスフォード運動のニューマン兄貴たちのように、「原始教会」と言い出し、さらにはカトリシズムに急接近していくあたりが興味深いですね。

「和解」とか「エキュメニスム」とか「人類平和」とか聞くと、私などはモノを知らないので、どうしても奇麗事に響くし、あまり真剣に考えようとも思いません。

ロジェも元々は小説家志望だったそうです。ですが、彼の前半生は、第二次大戦の中にあるわけです。

で、アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮なことであると考えたのかどうかは分かりませんが、恐らくそういうようなことを思って、テゼを始めたようです。

こういうことを知ると、和解云々は益体もない標語ではなくて、非常に身近な喫緊の課題だったのだと、あらためて蒙を啓かれました。

テゼについて、P・リクールが書いた文章がどこかにあるそうですが、それも読みたいな。