Liar Paradox

というわけで、学内研究会で、仏教論理学派における嘘つきパラドクスに関する諸立場に関する御発表を聞かせて頂きました。

嘘つきパラドクスというのは、

『クレタ人は嘘つきである』とクレタ人が言った。

という有名なやつですね。

色々なお話がでて、三分の一も分かりませんでしたが、面白かったのは分析哲学の先生のご指摘でした。

それは、そもそもこの文章はパラドクスなんて大層なものではなくて、ただの間違った文章だということです。

つまり、A=notAという膠着を起こすわけではなく、単に「クレタ人は嘘つきである」という「誤った前提」に立った文章なのであって、帰謬法に過ぎないということでした。

一瞬時間が止まりましたね。。。

でも、なんとなくそんな気はしますが、そんな気がするだけのような気もしました。

「すべての文は偽である」という文章は「文は、文としても、偽なるものとしても存在する」という風に換言できること自体が、この「すべての文は偽である」という文が偽であることを証明している、みたいななんともややこしい話が飛び交っていたものですから。。。

ところで、主旨が異なるので、当然発表では触れられませんでしたが、この言葉は、そもそもは、テトス書1章12−15節にあるそうです。

クレテ人の中なる或る預言者いふ『クレテ人は常に虚僞をいふ者、あしき獸、また懶惰(らんだ)の腹なり』この證は眞なり、されば汝きびしく彼らを責めよ、彼らがユダヤ人の昔話と眞理を棄てたる人の誡命とに心を寄することなく、信仰を健全にせん爲なり。

これはウィキペディアにあったのですが、何を言っているのか分からないので意訳しますと、

クレタ人の一人である預言者が次のように言った。「クレタ人はいつも嘘ばかり言っていて、馬鹿で、無能で、飯ばかり食べている」。これ本当。だから、やつらの性根を叩きなおして、「ジーザスを敬う」と言わせ、ユダヤ人の与太やアホの寝言にひっかからないようにしてあげないとだめぽ。

となると思います。

うーん、分かりやすいですね。

とりあえず、原文では、「クレタ人の一人である預言者が・・・」となっていて、「『クレタ人は嘘つきである』とクレタ人が言った」の、最初の「クレタ人」と二つ目の「クレタ人」を区別していますよね、あたりまえですが。

そもそも自己言及もへったくれもないんですね。。

しかし、そもそも、パラドクスよりも、オリエンタリズムをどうにかした方が良い気もしますがどうでしょうか。