コミュニタス云々

最近、偶然だと思うのですが、とりわけ周囲の色々な方のご発表を聞かせて頂いて思うのですが、つながり、絆、コミュニタス、接続、さらには想像の共同体みたいなものがキーワードとして頻繁に言及されています。

宗教あるいは宗教的なものを社会学的観点から論じる場合、現実も虚構も含め、人が集まってわいわいがやがや何かをやってるところが焦点化されます。

で、そういう状況を分析するために、上記のようなタームが鍵概念として持ち出されます。

しかし、多くの場合は、こういう難しい話をしなくても良いような気がします。

見えにくい紐帯とか、仮想のつながりとか、明かしえぬ共同体とか(それはないか・・・)なにやら難しい話になります。

が、その実、ただ人が集まって相互作用しているだけなのではないだらうか、コミュニティとギャザリングは違うのではないだらうか、と思います。

昨夜も、大変面白いご発表を聞かせて頂きました。

しかし、コミュニタスが頻出するようになってから、なんだか議論が大味になってきたように感じました。

私のような面倒くさがりには絶対にできないような長期調査を踏まえたお話で、データだけでも物凄いレベルなのは分かります。

しかし、せっかくの素材を料理するのに、道具がコミュニタスだけではなんだかな〜と思いました。

鋳型が先行していて、神々が宿るべき細部みたいのが、かなりばっさり切り捨てられていました。

というわけで、かなり勇気を振り絞ってそういうことを質問したら、幸い、多くの方の賛同を得ることができて、そうかやっぱり、みんなあんまりこういう予定調和的な議論を面白くは思っていないのだな〜ということが分かって安心しました。

「通常は社会階層の異なる人々が交錯し、日常世界の構造がサスペンドされる」みたいな状況としてコミュニタスが援用されていたので、それでは元旦の明治神宮なんかもコミュニタスって言えるのでしょうか、みたいな質問をしました。

で、さらに、コミュニタスの定義には「反構造の中で理想的社会関係が構成される」みたいな部分もあるわけで、本当は「そこらの巡礼地よりも、スワッピング・パーティーの方がコミュニタスに近いように思われるのですが、いかがでせうか?」って聞きたかったのですが、絶対に排除されるのでやめました。。

というわけで、どうしたものでせうか。。。