大変なことが起きている!・・・のか??

というわけで、ここ一週間は、もう、これっきりにするために、酒飲んでる時と遊んでいる時以外は、ちょっと気合を入れて翻訳をやっていました。

その甲斐あって、40ページのはずが、いつの間にか300ページに膨らんでいたノルマも達成できました。

で、翻訳機械として感情を殺してやっているせいなのかもしれませんが、著者のアメちゃんが大騒ぎしているところにほとんど感情移入できません。

巨大ショッピングセンターという“現実”も、

コンピューター・ゲームのシミュレーションの仮想空間も、

テレビで放送される宇宙船の中のホログラムで映し出されるクルーのイメージも、

商品を売るための見せかけの情報を与える“情報コマーシャル”の氾濫も、

そしてエプコット・センター(様々な外国の国を模倣した村々がごく近くに作ってあるため、“ドイツ”の音楽隊のメロディが聴こえるうちに、偽の“中世”のイギリスの村の端についてしまう)を散歩する休暇も、

これらがいっせいに私たちが“世界”の中で体験する“場所”となった時、私たちの意味と秩序に対する感覚は、どのように影響されるだろうか。

いかにも翻訳な感じで申し訳ないのですが、でも、翻訳なんです。

「私たちの意味と秩序に対する感覚」なんて、いかにも原文が思い浮かんでしまいますね。

で、それはさておき、こういった変化は、果たして「私たちの意味と秩序に対する感覚」に影響するのでしょうか。

正直、「別に・・・・」とか思ってしまいます。

著者は続けて、次のように言います。

たとえば、17世紀の日本の俳人・松尾芭蕉は、沈黙と禁欲のうちに、極めて宗教的な徒歩での巡礼をおこなった。

しかし、現代の日本人の観光客は、新幹線にのって彼の巡礼路をたどることで、芭蕉の名声を賛美するのである。

「沈黙と禁欲って、芭蕉は修道士か!江戸幕府のスパイだって話だぞ!しかもなんか、曽良とできてたんじゃねーの!?」とか、

「極めて宗教的な徒歩での巡礼って何教だよ!」とか、

「っていうか、当時はみんな徒歩だし、どっちかっていうと、すげー長い距離を歩いている人見ると現代人はなぜか「宗教的だっ!」って思っちゃうことの方が宗教的だっ!」とか、

「新幹線で芭蕉ルートたどれねーだろ!新幹線なめてんのか!」とか、

「今時、芭蕉ルートたどるような牧歌的な奴、ジャック・シラクくらいしかいねーだろ」とか、

余計な感想ばかり浮かんでしまって何が言いたいのか忘れましたが、上記のような現象って、そんなに凄いことなのでしょうか。

たとえば、誰かが、車の発明が「性道徳の低下を招いた」ことを論じていました。

(アメリカの話ですが)車によって、親とか近隣住民の目が完全に届かない所へ行けるようになり、そこで悪いことできるようになったわけです。

これって凄い説得的ではないでしょうか。

でも、「テレビで放送される宇宙船の中のホログラムで映し出されるクルーのイメージ」って、私たちのウェイ・オブ・ライフに車よりも大きな影響を与えているのでしょうか。

車の方が大きいような気がします。

だって、東京ならさておき、地方都市なら車なかったら、そもそもスタートレック借りに行けないし。。。

ファミコンは楽しいけれど、その空間は、あくまでファミコンのような気がするし。。家賃払わなければ、そのシュミレーション空間が成立するための空間がなくなるわけだし。

まあ、だんだん何が言いたいのか分からなくなってきましたが、こういう「仮想空間とか情報氾濫によって私たちの感覚が変容している!」みたいな議論って、あんまり面白くないなーと思うだけです。

そもそも、仮想空間も情報もなくたって、感覚なんてあっという間に狂ってきますよね。

最後は新興宗教のお話になるファイト・クラブだって、そもそもの原因は、「ただの寝不足」だし。。。

なんというか、そういうのの影響がゼロとは言わないけど、たとえば車みたいな割と今では自明視されているものの方が、自明視されているだけに影響が大きいような気がしないでもない、つまり「車は凄い」ということを言うつもりではなかったのですが、今日は車検が終わって、ナビも直ったのでそういうことにしようかと思います。