本当に痛いのはどこか・・・
というわけで、かなり久しぶりに土曜日の秋葉原に行ってきました。
色々電化製品を買いまくってしまいました。でも一番良かったのはマウス。
マウスって、こんなに壊れるものなんでしょうか?
しばらく経つとクリックが反応しなくなってしまいます。
今年だけですでに2つ目か3つ目のような気がします。
で、関係ないのですが、痛車を見てしまいました。
御存知とは思いますが、こんなやつです。
もちろん、個人的にはどうでも良いのですが。。。
人の趣味にとやかくいうつもりはまったくありません。
私が見かけたのもまさにこんなやつで、窓を開けて爆音でアニソンを流し・・・・という典型的なものです。
もちろんどうでも良いのです。。
痛車が本当に痛いのは、べつにオタク趣味を前面に出しているという事態そのものにはない気がします。
私が見た方には洒落っ気がゼロでした。
なんというのでしょうか、「見て、見て」というか「見ろ」みたいな感じで、ナンバーからさっするにド地方から渋滞をくぐりぬけて秋葉原に上京してきたようです。
そして、なぜか沈痛とも言えるよう真剣な表情を浮かべていました。
痛車はいったい何が痛いのでしょうか?
そもそもは、痛車の「痛」には、自虐的な痛さが入っていたのだと思います。
で、そういう雰囲気というのが、オタク的趣味全般を特徴づけているのだと思います。
それはアニオタに限らず、てっちゃんでも古銭収集でも一緒だと思います。
自分でやっておいて、自分で突っ込む痛さなのだと思います。
アイロニカルな没入という、あれなのだと思います。
その限りにおいては個人の趣味だし、犯罪じゃなければなんでもどうぞと思います。
でも、そうした躊躇というか諧謔というか寸止めというか韜晦が消えて、しなくても良い場所で、しなくても良い人相手に自己主張するようになると、そうした営為は途端に犯罪的な鬱陶しさを獲得するような気がします。
つまり「まじで痛く」なってしまうのです。
どこが痛いのかというと、恐らくは「皆もこういうものを分かってくれるはずだ」というような思い込みです。
コミュニケーションの透明性に対する牧歌的で素朴な過信とでも還言できるでしょうか。
なんとなく、わざわざテレビに出てきて自分たちは自由だと述べる無職のような種類の人々に対するのと同じような鬱陶しさを感じます。
落ち目というか白黒テレビの時代の芸人を24時間走らせて、それをテレビで放送するのと似たような鬱陶しさです。
あるいは、同じ日に、ある楽器屋さんの一階で、2時間前にデビューしたような感じのシンガーソングライターのような女性がライブをやっていました。
「ジャニス・イアンを尊敬しています」みたいなタイプです。
で、その人は「世界を平和にしょうというつもりで歌っています」みたいなことを言っていました。
もちろん、どうだって良いんです。
一瞬、ギャグかと思ったのですが、まじで言っていました。
でも、数百人が歩く公道にまで響くマイクでそういうことを言われると、「そこらの大家族より少ない聴衆に対して世界平和はねーだろー」と本能的に反応してしまいます。
世界平和を願うのは勝手です。
どちらかといえば善いことなのでしょう。
でも、その人が歌うことと、人種差別とか経済的格差とか紛争とかの解消は関係ない気がします。
たぶん『ペイ・フォワード 可能の王国』みたいなハリウッド的寝言に毒されているのでしょう。
自分が考えるように皆が考えてくれたら楽なんですけどね・・・・そんなわけありません。