独裁者の部屋

というわけで、昼ごろ起きると、外は雹とミゾレの中間くらいのわけの分からないものが降っていて、いつもの通り雨の日にはものすごい頭痛がするので、今日はおうちで良い子にしていようと部屋の電気をつけました。

すると、白熱灯の色がどんどん青くなってきて、「びよ〜〜ん」みたいな音がして、最後にバチンつって青い火花が散って、電球だけでなく、電気、さらにはコンセントごと昇天されました(電気って、なんて言えば良いのですかね?電気ってかくと電線を伝ってくるものしか想起しないのですが。「電気スタンド」と書けば明解ですが、別にスタンドではないので。以下、「電球を光らせる機械」と呼称します)。

あまりにすごいスパークでだっため、一瞬、宗教体験かピカチュウかと思ったくらいですが、直後から、部屋中、ものすごい「何かが真っ白に燃え尽きた」匂いがしました。

そんなわけで、雹とミゾレの中間くらいのわけの分からないものが降る中、たのしく外出することになりました。

日本だったら、どっかの家電屋さんに行けば、それこそ電気なんて山ほど売ってますよね。

100均でだって買えるかもしれません。

だからこんなナイーブになることはないんですが、フランスではナイーブになります。

適切なものが、どこに売ってるのか、想像がつきません。

で、まずはタンプルのモノプリに行ってみました。

日本で言えばイトーヨーカドーみたいなもんでしょうか。

電球はありましたが、それを光らすための機械はありません。

で、次に、レピュブリックのダルティ。

日本で言えば、ヨドバシカメラみたいなもんでしょうか。

当然、ありません。

パソコンも、テレビも、携帯電話も、そして電球もありますが、電球を光らすための機械は売っていません。

文章で書くとあっさりしていますが、なんか知らないけれどメトロのダイヤは大混乱してるし、立っていられないくらい頭痛はするし、雹とミゾレの中間くらいのわけの分からないものはその量を増し、さらにその性質もますます分けのわからない半端な感じになって雹だかミゾレだか雪だか分からなくなってるしで、軽く死に至る病にかかっています。

とはいえ、ここで諦めたら、今夜は懐中電灯を抱えて過ごすことになります。

そんなわけで、ますます分けの分からなくなったものが降る中をやけくそになって歩いていると、電球を光らすものが売っていそうな雑貨屋さんだがなんだか分からない中間的なお店に行き当たり、入ってみました。

で、確かに電球を光らすものは売っているのですが、どれもこれも、目に付くのは、ラブホテルにしか置いていないようなものばかり。

デザインと機能性がまとまじゃありません。

それで明るくなればよいのでしょうが、模様もすごいし、カバーに色んな色が混ざっているので、こんなものを使って生活したら、それこそピカチュウ現象でひきつけを起こしてしまいそうなやつです。

で、さらにやけくそになって、さらにわけの分からない天候の下、うろうろとオベルカンプを歩いていると、よりラブホ度が低そうな電球を光らすものが売っていそうな訳のわからない雑貨屋さんがありました。

やっぱりラブホ的電球を光らせるものがほとんどでしたが、一つだけ、オフィスにおいてもぎりぎりクビにならなそうなラブホ度8、機能性2くらいのものがあったので、それを買ってまいりました。

それにしても、なんでこういう日本では簡単に手に入るものが、ここではこうも手に入らないのでしょうか。

この国で必需品がぶっ壊れるたびに、「近代とは何か?」という問題系に思いをめぐらしてしまいます。

なんていうのでしょうか、フランスってたぶん、近代国家なんですよね。

人権とかもあるみたいだし、政教分離もしてるし、選挙もやるみたいだし、コンコルドも飛ばしてるし、日照りになっても国をあげて雨乞いするわけじゃないし。

で、日本もたぶんそうなんですよね。

人権とかもあるみたいだし、政教分離もしてるし、選挙もやるみたいだし、日照りになっても国をあげて雨乞いするわけじゃないし、ほとんどは魚の住処になってるみたいだけどロケット的なものも飛ばしているし。

でも、それぞれの国の具体的な生活レベルを比べると、どう考えても、フランスには近代性があるように思えません。

なんというのか、「近代性の手触り」とでも言えば良いのでしょうか。

近代性が細部に宿っていないというかなんというか。

あるいは、本来の意味とは違いますが、フランスでは近代のフェイズが後期近代まで移行していないというかなんというか。

ファスト・フード化の象徴とされるジャスコとかって、ここにいると物凄い便利なものだったのだと思います。

あるいは、コンビニとかヨドバシカメラとかマツキヨとか。

フランスで、より日用品に近いものを買う時にいつも思うのですが、ここでは、消費が必要の次元に留まっていて、記号のレベルには達していません。

たとえば電球を光らせるものをヨドバシに買いに行けば、それこそアホみたいな数のものが売っています。

どれもこれも機能的には十分なパフォーマンスを持っていて、本質的には差がなくて、でも、なんとなく選んで買います。

一方、フランスでは、こういう選択の余地というのは極めて狭いです。

かなりでかいお店に行っても、ラブホ的なものとオフィス的なものが一種類ずつだけ置いてあって、それで終わりだったりします。

なんかこう、機能を超えた部分での選択可能性みたいなものがなくて、おそろしくバラエティがないんです。

さらに、機能的にみても、記号的に作られた日本のものよりも、遥かに下ですし(日本でピカチュウを実写で見たことはありません)。

あるいは、先日、家の近くを歩いていたら、道の真ん中に非常に大きなものが落ちていました。

なにかと思って良く見ると、横断歩道の信号機でした。

日本で信号機が落ちているのをみたことはありません。

あるいは、学友がスカイプ用の電話が壊れて、上記のようなダルティとかフナックに行ったのですが、マック用は一種類しかなくて、しかも、45ユーロ(7000円)くらいしたそうです。

日本ならば、1000円しませんよね。

あるいは、この前、PCのセキュリティ・コードを買いに行ったら、やはり一種類しかおいてませんでした。

で、値札は当然ふっとんでいて、分かりません。

値段を聞こうにも店員はいないし、レジは旧ソ連のハンバーガー屋みたいな渋滞。

そんなわけで、いくらか分からないまま買ったら、みごと40ユーロしました。

日本なら、やっぱり1000円ちょっとですね。。。


こういう細部で崩壊している近代というか、鉄の檻が管理しきれていない感というのが、フランスには濃厚に漂っているような気がします。

これと似た感覚を抱くのが、どっかのやばい政権とかが崩壊して、独裁者的な人の宮殿的なものにカメラが入ったりした時です。

そこには物凄いものが沢山あったりします。

それこそ、ヴェルサイユ宮殿みたいな部屋です。

でも、そういう風景を見るたびに、「装飾とかすごいけど、結構、すみにくそう」と思います。

なんか、ソファーとかベッドがいくら気持ちよさそうでも、「あの電球、三ヶ月はもたねーな」みたいな雰囲気があります。

あるいは、「あのエアコンのフィルター、どうやって掃除すんだ」みたいな感じでしょうか。

もちろん、宮殿的なものに住んでる独裁者的な人が、自分で梯子に登ってブツブツいいながら電球変えてるとは思いません。

でも、下男が変えなければいけないわけで、それを変えている間、独裁者的な人でも待っていなければいけないし、あるいは、電球が切れたことを下男に伝えなければならないわけです。

そういうところが、ものすごく鬱陶しく感じるわけです。

日本で生活するのと比べると、半端ない量の細部の鬱陶しさというのがあるように思います。

そういう宮殿よりも、日本の大学生の一人暮らしの部屋の方が、遥かに機能性・記号性の双方において豊かなような気がするのですが。

もちろん日本だって色々だし、電球きれるけど、でも、そのシステム的な鬱陶しさというかなんというか、根本的なものが、何か違う気がします。

ダイエー帝国のギデンズ氏が、「なんで車の構造を分からない人でも安心して車に乗ってられるのか」みたいな問いを立てて、「それは車を作っている制度に対する信頼があるからだ」みたいな答えをだしていたような気がしますが、

でもさ、でもさ、ミニクーパーなんて、修理道具積まないとドライブもできないじゃないですか(BMWが作るようになって少し変わったそうですが、でもさ、でもさ、ヴィッツのほうが優秀でしょう)。

あるいは、ボードリヤールが1970年代に『消費社会の神話と構造』で次のように断言していたのは、上のような現状から当時の生活のレベルを考えると、私には奇蹟というか、思想史上最大の謎の一つに数えても良いように思われるのですが、いかがでしょうか。

今日では純粋に消費されるもの、つまり一定の目的のためだけに購入され、利用されるものはひとつもない。

あなたのまわりにあるモノは何かの役に立つというよりも、まずあなたに奉仕するために生まれたのだ。

いまだに「一定の目的のためだけに購入され、利用されるもの」くらいしかないし、それすら満足に大量生産・大量消費されていません。

たのむから、もうちょっと役立ってくれよ、奉仕しなくて良いからさ・・・・・