人口過剰

というわけで、辞書・事典の類を見ていると良くあることですが、気づくとにやにやしながらまったく関係のない項目を眺めているわけです。

で、今回気になったのは「信仰」の定義。

定番の岩波の『哲学・思想事典』では、宗教ごとの信仰の「歴史」などはすげー長く書いてあって、私などは40行目くらいのアンセルムスの「知解せんがために我信ず」あたりで猛烈な睡魔に襲われるわけですが、信仰の「定義」はしないわけです。
定義なので短くないと、私のような単純な人間には分かりません。

とはいえ、wiki先生は私としては0点です。
いくつか挙げられていますが、最初にあるのは、

神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。

というものです。

おそらく「信仰」を調べている人の少なからずは、「神や仏などを信じること」そして「ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること」自体がどういうことなのかを調べているわけなので、この答えはあまりうれしくないはずです。

上のものに続いて、

・人やものごとを信用・信頼すること。
・証拠抜きで確信を持つこと。またそれらを信じることを正当化する要因。

とありますが、一つ目は信用・信頼という言葉が信仰の類義語だと言っているだけだし、二つ目については「証拠があってはいけないのか」といった素朴な疑問や、

「信じることを正当化する要因」って信仰は「要因」なのかという疑問が生じてくるというか、

これを書き換えると「信仰は信じることを正当化する要因である」となってしまい、ますます分からなくなります。

おそらく、信仰は目に見えないし触れないので、もともと定義しにくいのでしょうが、今のところ一番しっくり来たのは次のもの。

他人が言っていることを理解できると思い、相手が真実を忠実に伝えていると信頼して、他人のことばを受け入れること。
    ジョン・ハードン編『カトリック小事典』エンデルレ書店

これも厳密に見れば瑕疵はあるのでせうが、「他人が言っていることを理解できると思い」という部分が個人的には好きです。

なんかものすごく上から目線で、優れた定義に特有の身もふたもない感じが漂っているのが素晴らしいと思います。

「信仰行為」の

神によって啓示されたいくつかの真理に対して自発的に表明する知性の同意

というのも秀逸です。

具体例として、聖体の前でひざまづくことや、使途信条を唱えることなどが挙げられていますが、
実際そうしている方々の横にいって、「あ、それ、知性の自発的同意ですよ、よかったですね〜」とか言ったらひっぱたかれることは間違いありません。

ちなみに、wikiが信仰とほぼ等価とする「信頼」を見てみると、

信頼とは、相手を信用し、頼りにすること

とか書いてあるわけですが、これは信頼を「信」と「頼」に分けてみただけですよね。

しかし、wikiが優れているのは、「信頼」の項目に、

信頼(のぶより)は、日本人の人名の一つ。藤原信頼など。

とか青天霹靂なことが書いてあって、気づくと、後白河上皇をケツもちにして平治の乱を起こしたおじさんについて読んでいることなのでせうね。

ちなみに、カトリック小事典が優れているのは、「信仰箇条」のすぐ下に「人口過剰」とかあって、ん?関係なくねーかとか一瞬思うのですが、ちょっと読んでみると、

人口過剰は増加する世界人口に地球の資源が足りなくなるという「一部の統計学者の説」で、

みんな心配しているのかもしれないけれど、それはあくまで「人間の懸念」に過ぎなくて、

科学進歩を促したのと同じ神の摂理が人口増加の問題も解決してくれるのでみんな心配するな、みたいなことが書いてあるわけで、すごく安心できるわけです。

あるいは、「ヴァチカン秘密記録文庫」なんてのを引くと「聖座の秘密文書の保管所」とあって、

いや、色々すげーのあるんだろうな〜とか思うわけですが、

続けて読んでいくと、

まずパピルス変質、引越し、政変のせいでインノケンティウス3世(1161〜1216)以前の文書はほぼ全滅、

で、今度は19世紀にナポレオン氏が乱入してきてパリに引越しさせられて、ボナパルト氏の失脚以後にローマに再度引越しするわけですが、

引越しごとに「多くの文書が失われた」そうですが、いや〜、日通とかクロネコの方なんかが見たら失神しそうなあまりにラテン系な仕事ですね。